砂川市議会 令和4年第3回定例会 2022年9月14日
市長選挙への善岡市長の立起について
2022年9月14日、砂川市議会の一般質問で、増井浩一議員が「市長選挙への善岡市長の立起について」質問し、市長 善岡雅文が答弁しました。
- 質問者
- 増井浩一 議員
- 答弁者
- 市長 善岡雅文
議事録から機械で取り出したものです。正しくは会議録でお確かめください。
質問 増井浩一
通告に基づきまして、一般質問をさせていただきます。次期市長選挙への立起についてであります。私は、明年4月に迫った統一地方選挙、市長選挙への善岡市長の立起について質問をいたします。善岡市長は、平成23年4月、市民の大きな期待を受けて市長に就任され、以来3期12年にわたり市民との対話を重視し、安心して市民が暮らし続けることのできるまちづくりを第一に、市政の発展に努力されてきております。私は、その真摯な姿を議会を通してはもちろんのこと、様々な機会を通じて拝見してまいりましたが、まちづくりに対する善岡市長の姿勢に敬意を表すものであります。市長が初当選された平成23年から今日までを振り返りますと、少子・超高齢化社会の進展や人口減少により地方が疲弊する危機の時代であり、また、気候変動により全国的に災害が多発化、激甚化してきたことに加え、ここ数年は新型コロナウイルス感染症の影響もあり、新たな生活様式が求められるなど、市政運営に大変苦慮してこられたものと存じます。このような中、地域コミュニティの希薄化を危惧した善岡市長は、自ら率先して町内会をはじめとする市民との対話を通じて、高齢者いきいき支えあい条例の制定により、町内会、民生委員などによる高齢者の見回り体制を構築するなど、地域活動の活性化を図ってこられました。また、地域包括ケアネットワークシステムの確立をはじめとする福祉事業の充実、未就学児の医療費無料化及び小学生への拡大や病児・病後児保育所の整備など、子育て世帯への支援の数々、地域の基幹病院である砂川市立病院の診療体制や診療機器の充実など、数多くの事業を展開されたことは大きく評価するところであります。さらに、防災拠点である市役所庁舎の建設に当たっては、市民の多くの声を聞きながら事業を進め、おくやみ窓口の設置など、質の高い市民サービスが提供できるよう取り組まれたほか、市民生活の環境改善のため商業街路灯のLED化、学校や体育施設の耐震化の整備、国への要望により砂川SAスマートインターチェンジの開設、国道12号線における市内中心部の無電柱化を実現させるなど、市民のニーズを的確に捉え、積極的に事業を実施してこられました。こうして数々の事業を実施される一方で、持続可能な市政運営を目指し、将来への負担を残さぬよう、財政の健全化にも取り組まれてきました。とりわけオアシスゴルフ場の廃止と株式会社砂川振興公社の清算については、市民の中でも賛否両論ある中で、財政運営に精通した善岡市長でなければなし得なかった大きな決断でありました。これらのなし遂げた事業は、砂川のまちづくりにとりまして後世に繋いでいく重要なものであります。ここ数年は、新型コロナウイルス感染症の対応により、思い描いた市政運営ではなかったと推察いたしますが、一方でワクチン接種体制の整備のほか、消費低迷に対する他市にないきめ細やかな支援など、迅速な対応をされてきたことに改めて敬意を表すところであります。以上、市長の実績の一端を申し上げましたが、これからの砂川市のまちづくりにおいては、駅前地区整備の推進や義務教育学校の建設、JR砂川駅、北電砂川発電所跡地利用など、重要な課題がまだまだ山積しております。これらの課題の解決には、善岡市長の豊富な経験と卓越した行政手腕、リーダーシップに、私をはじめ、多くの市民の大きな期待が寄せられているところであります。このことから、次期市長選挙への立起について、善岡市長の考えをお伺いいたします。
答弁 市長 善岡雅文(市長は2023年3月まで)
次期市長選への立起についてでございますけれども、今増井議員から私の行った事業の一端について紹介がございました。それを聞きながら、私が12年前、市長選に出ようとした、そのときのことを思い浮かべていました。当時は菊谷市長の時代で、三位一体改革ということで、国が地方の交付税をどんどん落としていく、夕張が破綻した時期でございますけれども、砂川も5億円ほどの交付税が落ちまして、このような状況の中でやっていけれるのだろうかと、そんな思いの中で市長選への決断をしたわけでございます。当時思ったのは2点ございまして、1つは財政規律、いわゆる財政を安定させる。しかし、役所が安定して、まちが衰退するのでは意味がないと。いわゆる財政規律を守るのと、事業実施の両立をどうやって図っていったらいいのだろうと。もう一つは、菊谷市長が市立病院を建てました。あれは、菊谷市長でないと恐らく決断できなかっただろうと思っております。幸いにも、菊谷市長と私で、私が総務部長時代ですけれども、総務省に3年間通って、やっと全国初の510床の大病院にもかかわらず、過疎債を該当させてくれた。それがゆえに、今何とか大きな赤字にならず、また少しの黒字でやってこれていると。ですから、私は財政規律を守る、そして事業実施をすると、それから市立病院を中心としたまちづくりをしていかなければならないというのが最初に思った2点でございます。病院につきましては、幸いにもその当時第3次医療圏の救命救急センターの指定になりました。この指定は、道内で7か所だけで、この指定が大きく砂川の運命を変えていくことになりました。私は、市立病院が活性化の起爆剤になるだろうと。それで、最初にロードヒーティングをやりました。私のやった事業の中で一番市民から喜ばれたのは、実は病院通りのロードヒーティングでございますけれども、3次医療圏に指定されたことによって何が変わったかというと、砂川市のスマートインターチェンジ、中川市長、菊谷市長、私と、3代にわたって取り組んできました。中川市長の時代には、いわゆる地方公社化、市が公社をつくって維持管理も負担するやり方。あまりにも負担が多くて、これは成功しませんでした。次に、菊谷市長の時代には、インターチェンジの実証実験、取りあえず実験でつけましょうと。その代わり、道路は市でつけてくださいと。ただし、費用対効果というわけではないですけれども、車が少なければ撤去しますと。市で道路を造って撤去される状態になれば、北海道の場合、特に車の通行量が少ないと。それで、道路を造って撤去されると、菊谷市長の政治生命にも関わると。なかなか決断ができなかったわけでございますけれども、病院を建てたことによって、たまたま3次医療圏の救命救急センターに指定されたと。これは、道内7か所で大きな都市6か所と、砂川がその一角に入った。これが大きかったわけでございまして、それがいわゆる従来のスマートインターチェンジを設置するときの費用対効果という考え方から費用便益、いわゆる救急車がその病院にみんな集まってくる。そのときに一般道路を通るよりも、高速道路を利用してスマートインターで降りると10分短くなると。いわゆる救命率が高まると。それが交通量が少ないにもかかわらず、砂川が逆転でスマートインターチェンジができた理由でございます。また、砂川の市立病院、建設から10年たったときには280名ぐらいですか、職員数が増えまして、そのうち医者は当時、建てる前は90名ぐらいでしたけれども、16人医者が増えまして、106名ですか。まさに大病院というわけではないですけれども、ほかのまちから見れば恵まれた病院と成長していって、職員が増えるということは、いわゆる人口の社会減を減らす効果がある。それで、スマートインターはそういう理由でついたのですけれども、話はそこで終わらなくて、次災害拠点病院に救急車が来たときに、12号線の電柱が地震で倒れたら救急車が通れないですよねと。そうしたら、これは無電柱化にしたほうがいいと。それが空知の中で1番目に砂川市が該当した理由でございます。何かにつけて、この周産期の拠点病院であったり災害拠点病院であったり3次医療圏の病院、がん拠点病院だと、そういう病院の地方における在り方というのはすごく大きなものがあると。まちの中心は、病院がリードしていくと。職員数も1,000人を超えていると。そんな状況で、市立病院を中心としたまちづくりは間違いではなかったと。ただ、もう一点、財政規律と事業実施をどう両立するのだと。これが一番難しい問題で、私が一番悩んだのは当時ゴルフ場、5億円の赤字を抱えていた。私の理論では、3,000万円までだったら、償還額が3,000万円あるので、ある程度借金を増やしてはいけないと。だけれども、3,000万円を超えてくると、5億円がどんどん増えていくと。恐らくそのまま続けていたら10億円以上、15億円ぐらいまで借金は膨らんでいただろうと、やる人が減っていきますので。それを分かっていて、私は公費をつぎ込んでいくことはできないと。市長も、嫌な決断でもしなければならないと。砂川を守るためです。ゴルフをやっている人たちには大分怒られましたし、本当に申し訳ないという思いでありますけれども、これは市長でないと決断ができないということで廃止にいたしました。大分怒られましたけれども。それほど市長の責任は重いと実感しております。菊谷市長から受け継いだ基金、10億円です。菊谷市長も三位一体で厳しい中でも何とか10億円の基金を残してくれたと。今私になって、来年3月で、見込みですけれども、基金残高は26億円ぐらいになりそうです。また、庁舎の建設、50年に1回、これもめぐり合わせですが、私の下で建て替えることができた。また、市史の編さんも30年に1回ですけれども、作り終えたと。3期12年、一定の役割を私は果たしたかと。もう一つ、70を過ぎて、従来のパフォーマンスができないのに市長を続けていいのかと。年齢の問題でなくて、私が市長になったときの同じようなパフォーマンスで市長をやれるならやります。でも、自分の中でそこまでできないと悟ったときには、これは3期12年は一つの区切りだと。次の若い人たちにバトンを渡さなければ駄目だと。常々迷いながら、そういう決断に至りました。市民の方からもう一期やってという声はよく聞きましたけれども、自分の能力が完全に出せないのに市長を続けるということは、市民に迷惑をかけることになる。断腸の思いで辞める決断をしたところでございます。今まで12年間、お世話になった市民の皆様、そして議員の皆様、それから私を支えてくれた幅広い大後援会の皆様に感謝の言葉しかございません。どこまでできたかの判断は市民に委ねるしかございませんけれども、何とか私の積み残した駅のバリアフリー化、スマートインターチェンジではないですけれども、後輩のどこかで達成できるものと思っております。残念なのは、駅のバリアフリー化を自分の手でできなかったことでございます。積み残しをしますけれども、何とか次の人たちが頑張ってやってくれることを期待して、答弁に代えさせていただきます。大変ありがとうございました。