猿払村議会 平成24年第2回定例会 2012年6月27日
開村90周年事業について
2012年6月27日、猿払村議会の一般質問で、野村雅男議員が「開村90周年事業について」質問し、村長 巽昭が答弁しました。
- 質問者
- 野村雅男 議員
- 答弁者
- 村長 巽昭
議事録から機械で取り出したものです。正しくは会議録でお確かめください。
件名は質問の本文をもとに当サイトで付けたものです
質問 野村雅男
次3番目、開村90周年事業について。村長は、今議会も開村90周年ということで関連する質問が多々あります。手短にお話をしたいのですが、来年の村の開村90周年ということで、村長は本村の開基に重要な役割を果たされました石川県内灘町の漁民。この村の歴史からいっても、そういうふうに記述されておりますし、沢山の、内灘町を中心とする石川県の方々がここの漁場を築いたということは、私共の記憶の中に十二分に伝わっているところでございます。これを機会にですね、この90周年を機会に、姉妹町村の契りを締結し、後世にこれを改めて伝えたいと。こういう考え方であるようでございます。私も一人の村民として、村長のこの姿勢に対しまして大変いいことだなと。やはり、これを機会にですね、当時のことがいろいろな形で我々にも、また我々のあとの方々にも、やはり残していくべきでないかなと、そんなふうに考える一人でございますし、村長の考え方に共鳴をしているところでございます。私はもう一つ猿払村に大きな出来事があったのではないのかなと、考えている一人でございます。それは、資源が枯渇してしまったホタテ資源の復活であります。この復活がなくして、猿払村の再生があったでありましょうか。道内の他の町村においても、この猿払村の本当に英断といいますか、そういうことが、事業があって猿払村が成功したと。これは大丈夫だと。外海ですね。それにやるのを次々に猿払村の事例を取り入れてですね、それが各地域の沿岸漁業の柱となり、また町村、沿岸地域の再生に繋がったと。こういうことは、今も現実がそうでありまして、昭和46年ぐらいから確か稚貝の放流が始まりまして、副議長さんが、大先輩がおりますので、私は当時はまだ二十歳かちょっとそこらで、漁業には関係していない場所でございまして、そういうことを言うのはですね、アレかもしれませんが、もう現在40年経っていると。継続されてきていると。今後も、これが柱でありまして、強く継続をされていくだろうと、そういうふうに思っている一人でございます。当時、村民にですね、広く協力を求め、導いた故笠井勝雄氏(元猿払村長)、また漁民を説得し、結束して先導した故太田金一氏(元猿払村漁協組合長)の功績は、誠にもって前例も後例もないことでありました。永く猿払村史に残ることであります。今、改めて村内外に知らしめると。この 90周年事業に取り込むことが重要なことと考えますが、村長はどのように、このことを考えておられますか。率直にお伺いをしたいと思います。
答弁 村長 巽昭(村長は2013年9月まで)
ただ今の質問にお答えいたします。私も、日本一のホタテ王国、猿払村の村長になりまして、村外の方にこの猿払のホタテの話をする機会が多々ありますし、積極的に他の市町村長の方々にもこのお話をしております。この猿払のホタテ物語をお話しするときには、必ず二つの話をしなければなりません。一つ目は、 1900年頃、石川県内灘町の人々によってホタテ資源を開発し開拓してくれたこと。そしてもう一つが、今、議員おっしゃったとおり、昭和46年、1971年より4年間、増殖事業を行いまして、見事に枯渇したホタテ資源を復活したと。この二つの話が中心にお話しすることにしております。私も、この二つの出来事は後世にしっかりと伝えていかねばならぬ歴史であると認識しております。議員がおっしゃるとおり、現在の村の基幹産業である漁業の中心となっているホタテ資源の復活を成し遂げた故笠井勝雄氏、故太田金一氏の御功績は大きなものがあると感じております。あわせて、このリーダーを支えた多くの先人たちの功績も、決して忘れてはならないと考えております。御二人の功績、ホタテ資源復活の歩みは、開村 90周年を記念し発行する村史第2巻に記載する予定であります。また、今年度改定予定の、小学校社会科副読本の中で、村の歴史の一つとしてホタテの復興の取り組みも記載されると聞いております。小学生から村の特別な歴史に触れることで、ふるさと猿払への愛郷の心が生まれること、猿払村の復活、猿払ホタテの復活の歴史が、村民の心の中に生き続けてほしいと心から願っております。以上でございます。
質問 野村雅男
今、村長の答弁をお聞きいたしました。村外いろいろな所へ行って猿払村のことをお話しするときに、最初の内灘町の漁民が最初に開拓をしたということと、昭和46年に枯渇した資源が復活したんだよと。こういうことは、やはり二つ、きちんと伝えなければいけない。私も当然そういうふうに思いますし、ただ、漁業だけの、私はお話だけではないと。当時は、猿払村の貧困が、昭和30年代からはですね、大変たくさんの漁民がいらっしゃいましたけど、多く村を離れて、いわゆる魚も獲れなくなった、ホタテも枯渇をしてきた、どんどん村を離れていった、そういう時代でございました。それをですね、もう本当に最後に、何とかして一生懸命繋いできた人方が最後に選んだ道が育てのホタテの養殖だったと。やはり、どん底の生活といいますか、そういう中で村もですね、やはり笠井元村長が、よし分かった、ということで議会あるいは村民の皆さんを説得してですね、当時のお金として二千数百万円ほどをですね、この漁民の事業に補助したと。いわゆる、当時の自前の財源、猿払村税の半分近くに当たると。そういう時代でございました。それがこういう形で今、大きく花を開いて、しかもそれも継続して、そしてまだこの先もあると。そして、漁業や水産加工業ばかりでなくてですね、猿払村全体。いわゆる村にそれだけの税収がありまして、それをですね、やはり村民全体のいろいろな施設の中の礎と申しますか、呼び水と申しますか、そういうところに予算が使われていって、ひいては農業予算のほうにもですね、あるいは山のほうの予算のほうにもですね、十二分に反映していると。そして、いろいろな形で村民が恩恵を受けてると。こういうふうに言っても過言ではないと。それが村の再生であるというふうに私は言えるのではないのかなと。そして、そこには当然多くの方々が一致結束してやった結果が、こういうことだということで。二人は皆と一緒にやったことでしょうけども、その時代を象徴する、という方だなと。そういう方々を大事にする、あるいは後世に知らしめる。これが一つ、今、私たちがここで生きている、そういう役目ではないのかなと、そんな気がしております。そういうことで村長も、ある程度考え方につきましては共生をしてると思いますが、もう一歩踏み込んだですね、その時代の事例をですね、きちんと後世に残すと。確かに村史ですとか、あるいは副読本とかということも良いのですが、いさりの碑も残っておりますが、その辺に二人の、浜を見て何かをお話しをしているですね、そういう記念になるものができないのかなと。そんな私は感じを持っておりますが、そういう辺について村長は、どういうふうにお考えかと。もう一つ、 ちょっと踏み込んでお返事をいただきたいなと、そんなふうに思っています。
答弁 村長 巽昭(村長は2013年9月まで)
ただ今の質問にお答えいたします。実は先日、陸上自衛隊名寄駐屯地の創立59周年式典がございまして、それに出席することとなりました。式典の場に私、着いたのでございますが、そうすると、ある留萌管内の町長さんが横に来て、何を話すのかなと思ったら、この間、地域懇談会が町の中であったと。そして全ての地域で、去年あなたがここで話したことを全部お話しした、というお話をしてくれました。そのお話というのは今言っている、昭和46年から昭和49年までの増殖事業計画、稚貝1億9400万粒を買うために4億6800万円のお金が必要であり、村のほぼ1年分の税収に当たる4500万円、そして漁業は水揚げの半分に匹敵する1億円を出したと。それにしても3億2300万円は足りなかった。その3億2300万円は村が損失補償をするということで、何とかお金を工面して、この事業を村も漁協も運命を共にして懸けた事業なのだ、というお話をしたことを思い出しましたけれども、これは組合のあり方、また行政のあり方にも参考になる話だなということを、つくづくその町長から聞いて思いました。行政のやり方、どんな行政をやるのかという一つのモデルになる出来事だと思ったものであります。それくらい、この業績というものは逆に後世の方に伝えていかねばならぬものだなと思っております。私も、この90周年を一つの契機といたしまして、何とか少し形のあるもので残したいなという気持ちは今、持っております。まだ、やるとは言いません。持っておりますので、少し検討して前向きに、何らかの形で形に残る形を作りたいなと思っているのが現状でございます。以上でございます。
質問 野村雅男
終わります。