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古平町議会 令和8年第2回定例会 2026年6月16日

最後に戦没者について

2026年6月16日、古平町議会の一般質問で、真貝政昭議員が「最後に戦没者について」質問し、町長 成田昭彦が答弁しました。

質問者
真貝政昭 議員
答弁者
町長 成田昭彦

議事録から機械で取り出したものです。正しくは会議録でお確かめください。

質問 5番 真貝政昭

次に、最後に戦没者について伺います。戦前の役場というのは、仕事は税金を納めること、それから子供の教育、それから兵隊を招集するという、この三大仕事がありましたよね。あちこちの町史を見ますとね、役場職員が赤紙を持って各家庭を回るだとか、それから硬貨を集めるだとか、毛皮を集めるために犬猫を供出させるだとか、そういう戦争一色でね、自治体の協力なしに戦争はできないっていうことがよくわかる時代でしたよね。古平町の場合は日露戦争から始まって二百名以上の方が亡くなっています。琴平神社境内の句碑の裏側に名前が刻まれていますけども、その方たちの名前というのは町史には刻まれてないんですね。そういう町史に刻まれても、その方たちが今の時代にね、クローズアップされるってことはないんですよ。結局戦争で死んでもね、浮かばれないっていうことです。そういうことがあってはならないと思うんですけども、私の父親の兄もね、フィリピンの方で亡くなっています。で、遺骨は返ってきてないんですよね。この古平町で戦死した方たちがどこで亡くなって、何歳で亡くなったのか、骨は返ってきたのか、それはきっとね、私の叔父のようにまるっきり誰も返ってきていないのではないかと、そこら辺がね、全くわからないんですね。戦後の日本国憲法ってのがね、多数の命を奪ったその反省から生まれた憲法のもとで生まれたんです。人によれば、亡くなった人たちの命の代わりに日本国憲法ができたんだと言われるくらいなんですね。だからその方たちをやはり忘れさせないためにもね、戦争っていうものを絶対忘れないためにも、そういう方たちのそういうことを町が役場が明らかにして町民に知らしめるっていう作業が必要でないかというふうに思っているものですから、今回質問した次第です。答弁をお願いします。

答弁 町長 成田昭彦

真貝議員の戦没者について答弁申し上げます。結論から申しますと、役場ではわかりません。はい。いろいろですね、町の保存する文書ですとか、書類、データ、探してみましたけれども、戦没者の名前以外は一覧以外は見当たりませんでした。考えてみますと、琴平神社の境内に先ほど言った鎮魂歌歌碑の裏に刻されてございますけれども、あれが建立したのは昭和 40 年なんですね。で、町史の一巻にもこの名前載ってるんですよ。町史の第一巻の発刊が昭和四十八年ですから、おそらく琴平神社の歌碑の裏に刻されたものが町史に載ってきてるのかなと思うんですけれども、それも町からの資料なのか、遺族会が持っていた資料からああいうふうに出てきたのか、たしかに分かりません。町史を見ますと日露戦争で 9 名、支那事変で 20 名、大東亜戦争での戦没者178 名の名前が記されておりました。この部分が全て琴平神社の歌碑の中にこの名前が入っていますので、おそらくそれから持ってきたものだと思います。で、私どもも保存しているというか、町の形でですね、あるのはその名簿一覧だけしか残ってない。ですから、戦没月日ですとか、どこで亡くなったのかっていうのを把握することは不可能でございます。戦没者の特別弔慰金ありますけれども、あれももう 12 回出してるんですけども、その最初の頃、昭和から平成になる頃、ちょうど私、福祉係長で担当したこともあるのですけども、その当時でまだ件以上の弔慰金請求がありましたけれども、今はもう遺族も減っていて、何十件くらいにも収まってるとのことでですね、町で抑えられるのはその特別弔慰金の関係で抑えられる分だけです。ただ、その特別弔慰金の請求の中にもですね、そういった戦没地ですとか、戦没した死亡日は確認できるんですけれども、そこは確認できない状況ですので、今は町に残っているのはそれくらいでございます。これからもおそらくその辺を調べていくのは道のほうに照会しても無理だということで言われていますので、ちょっと難しいのかなというふうに思っております。

質問 5番 真貝政昭

村井先生が執筆した『せたかむい』にも、戦争中末期ですね、万歳するっていうあたりに、しつこく古平町の方から、軍隊に関する資料を燃やせと、そういう指示がしつこく来てたっていうのを書かれてますよね。東京大空襲で東京都の区役所の職員ですけども、やはり同じような命令でね、空襲で亡くなった人たちの名簿も燃やせっていう指示が出たんですって。それが戦後何十年も経って、燃やすことはできなかったっていうことで、名簿が出てきたっていう経緯がありました。日本中、あの戦争の件についてはね、当時の政府、軍隊からとにかく資料は燃やせという指示が起きて、古平町でそういうふうにあんまりよくわからないっていう状況ってのは、資料が残されていないっていうことですよね。それと、戦没者の名前が刻まれたっていうのは、遺族会が把握していたものが残っているため判明したということです。刻まれた他にね、沖縄の遺族会で北海道の遺族会が古平町の戦没者の名前も把握したものが沖縄の戦争記念館の慰霊碑に書かれていて、琴平神社の句碑の裏側に刻まれた以上に、数名の町民の名前が出てきたんですよ。だから戦争で亡くなった人たちのその後を調べるといったら、どういう形で亡くなったかとか、戦没地っていうのは、やはり民間の努力なしにはわからない状況が続いているということですね。それだけ戦争が始まったらね、今の日本政府だって何やるかわかんないっていう状況ですよね。だけども以前、遺骨の収集は厚生労働省だとか、総務省だとか、防衛省だとか、戦前の軍隊のいろんな記録が残ってるはずですからね。やはり個人では調べられないけれども、地方自治体がやろうと思えばね、それは時間と労力がかかるかもしれないけれども、把握していくことはできるのではないかっていうふうに思っています。私の叔父も、どこの海の底に沈んでるのか、陸地で亡くなったのか、まるっきりわかりませんけどね。やはりあの、そういう人たちの名前、戦死だとか、そういうものを埋もれさせないためにも、やはり戦後の自治体が努力をして解き明かしていく必要があるのではないでしょうか。

答弁 町長 成田昭彦

(前半不明瞭のため聞き取りできず)…亡くなったことを説明に来てくれた戦友がおりまして、うちの叔父になりますね。叔父は沖縄でこういう風になって亡くなったっていうことをですね、わざわざ教えに来てくれた方おりましたけれども、そういった中でまだまだ戦後は終わってない、そういう家族に遺族にしてもですね、そういったものがまだあるのかなと思いますので、調べられるだけは調べてみたいと思いますけれども、そういったことでご理解願えればと思います。

出典:古平町議会 令和8年第2回定例会 2026年6月16日 議事録 PDF(47ページ) 間違いを知らせる