深川市議会 令和2年第2回定例会 2020年6月10日
北海道開拓の礎になった囚人労働者へのリスペクト
2020年6月10日、深川市議会の一般質問で、北名照美議員が「北海道開拓の礎になった囚人労働者へのリスペクト」について質問し、建設水道部長 井原淳が答弁しました。
- 質問者
- 北名照美 議員
- 答弁者
- 建設水道部長 井原淳
議事録から機械で取り出したものです。正しくは会議録でお確かめください。
質問 14番 北名照美
次は、北海道開拓の礎となった囚人労働者へのリスペクトについてです。1点目、国道12号の開削は、樺戸、釧路の集治監の囚人と言われているが、それについての史実を伺う。2点目、慰霊、顕彰が必要と考えるが、見解を伺う。少しだけ言うと、この場合、囚人と言っているけれども、明治政府から見た上での囚人であって、例えば自由民権の士だとか、あるいは反乱士族だとか、そういう人たちもこの囚人労働に携わったということがあります。それから、先ほどのアイヌ民族に対してもそうですが、やはり北海道という我々の大地は、そういう方たちの力によって成り立ってきたので、ぜひ今言った2点、史実はどうかということと、リスペクトして慰霊、顕彰するべきではないかということを伺います。
答弁 建設水道部長 井原淳(建設水道部長は2021年3月まで)
北海道開拓の礎になった囚人労働者へのリスペクトについて2点質問いただきましたので、順次お答えいたします。北海道の開拓史を語る上で、どうしても切り離すことのできない物語があります。明治政府により、それまで蝦夷地と呼ばれていた北の大地が北海道と名付けられ、この地に開拓の礎となる本州からの多くの移住民や屯田兵がやってきます。その入植の過程で、未開の地を切り開くための道が必要となり、その労働力として駆り出されたのが、重罪人として当時、北海道に四つ開所されていた集治監に服役していた囚人たちでした。平成6年に編さんされました新深川市史には、深川市における最初の集団労働は、明治19年から開始された上川仮道路の開削工事、現在の国道12号について記述されています。この開削工事を少し詳しく申し上げますと、明治19年5月16日から8月20日までの97日間をかけて、市来知、現在の三笠から中別太、現在の旭川まで、おおよそ90キロに延べ19万3,800人を動員し、その工事は空知川を境に、北へ旭川方面は樺戸集治監の囚人の手で、南、三笠方面は空知集治監の囚人の手によって、人跡未踏の原始密林を切り開き、道幅約1.8メートルの道路をつくり、川や沢に土の橋を架け、湿地には排水溝を掘り、人や馬がやっと通れるようにしたものでございます。しかし、あくまでも仮の道であったので、その翌年、明治20年になり、上川道路の道幅を広げる改修が、樺戸・空知両集治監の囚人によって行われました。そして、その仮道路開削当時につくられた囚人たちの宿泊所が、後の馬車や郵便、荷物などを中継する駅逓となっていったものでございます。新深川市史や、他のいわゆる囚人道路の文献を見る限りでは、上川仮道路も含めた上川道路の開削に、議員の質問で触れられております釧路集治監の囚人の使役を読み取ることはできなかったところです。続いて2点目の、労働者慰霊、顕彰の実施の考え方についてお答えいたします。当時の明治政府には、近代国家建設のために北海道開拓を一刻も早く進め、北の脅威に備える必要がありました。そのためには、北海道の内陸開発を基本に道路を開削することが至上命題であり、上川道路が出来上がると、次はオホーツク方面、旭川から北見峠を越えて、網走へと北見道路の工事が進められます。この北見道路工事もまた、樺戸、空知集治監と共同で進められ、さらに釧路集治監分監として設置された網走分監からも多くの囚人が動員されました。この北見道路の開削が、囚人労働史上最も悲惨な事例とされ、昼夜問わず苛酷な労働を強いて、寒さや食料不足、過労から水腫病が大量発生し、囚人たちの多くが亡くなり、足に鉄の鎖がつけられたまま、そのしかばねは路傍に埋められていったものであります。このような道路開削により殉難した者を慰霊する碑として、北見峠には中央道路開削殉難者慰霊の碑、網走湖畔二見ケ岡の道路沿いには国道創設殉難慰霊の碑などが建立され、北海道開拓の礎となった囚人の霊の安らかな眠りを念じているものです。本市での慰霊碑の建立や顕彰などの実施については、現在は考えておりませんけれども、北海道開拓の歩みは囚人労働によるものが多く、囚徒となった人への哀悼と慰霊、そして感謝の気持ちを忘れることなく、後世に長く語り継がれていくことは大変大事であると考えているところであります。