みんなの議会

訓子府町議会 平成24年第4回定例会 2012年12月11日

本町の鉄路の歴史を伝え残す施策について

2012年12月11日、訓子府町議会の一般質問で、工藤弘喜議員が「本町の鉄路の歴史を伝え残す施策について」質問し、町長 菊池一春が答弁しました。

質問者
工藤弘喜 議員
答弁者
町長 菊池一春

議事録から機械で取り出したものです。正しくは会議録でお確かめください。

質問 3番 工藤弘喜

3番、工藤です。それでは、これから私の一般質問を通告書に従いまして質問をいたします。今回は3点ありますが、まず、はじめに第1点目です。本町の鉄路の歴史を伝え残す施策について。本町の鉄路の歴史は、1911年(明治44年)9月開通、そして、同年、訓子府駅開業、そして、2006年(平成18年)4月、ふるさと銀河線全線廃止まで、95年余の歴史があります。鉄道開通までの経過や開通後の町の状況については、昭和42年発行の訓子府町史にも詳しく述べられております。さらには、1989年(平成元年)6月に池北線が廃止となりまして「ふるさと銀河線」が開業、そして、2006年4月に廃止となるまでの間にも存続のための取り組みも含め、さまざまな関わりと思いが町民の中にあったのも間違いありません。よって、次の点について、町長の見解を伺います。1、本町の鉄路の歴史を伝え残すことが必要であると考えますが、町長の考えを伺います。

答弁 町長 菊池一春(町長は2023年3月まで)

ただいま「本町の鉄路の歴史を伝え残す施策について」のお尋ねがありましたのでお答えをさせていただきます。明治30年に開拓のがおろされた本町では、議員が言われるとおり明治44年秋に当時の網走線、後に池北線になりましたが、この開通によって、住宅戸数が開通当時の常呂川沿い数十戸から4年後には743戸、9年後の大正9年には1,146戸に達し、訓子府村が誕生していることからも当時の町民をはじめとした沿線住民の悲願であった鉄路開通が現在の本町のを築いたことは町史にも記されているところであります。その後、昭和57年の国鉄廃線の危機を町民並びに沿線住民の総意で乗り切り、北海道ではじめての第3セクター鉄道として存続しましたが、経済情勢、沿線自治体の急激な人口減少など、社会情勢の変化や設備老朽化により、平成18年4月に95年の鉄路の歴史に終止符をうったものでございます。私自身も平成19年の町長の立起にあたりまして「ふるさと銀河線」を再び走らせることの可能性を探ることを掲げ、沿線自治体の町長との協議をいたしましたが、廃線の決定をした行政の責任、運行や設備投資等の財政問題など、一自治体の町長が列車を走らせることが現実的ではないことを認識し、断腸の想いで決断した経過もございます。既に鉄道跡地は市街地の一部を残し、実践会地区では畑の一部となり、象徴であった西富跨線橋も昨年撤去され、列車が走っていた面影もなくなり少しさびしい気持ちはありますが、網走本線建設に心血を注いだ明治の先覚者、廃線の危機に立ち向かった皆様や存続に向けてさまざまな活動をされた町民の皆様の鉄路への思いは議員の言われるとおり私自身も感じているところであり、本町の文化遺産として伝えるため、訓子府歴史館の展示スペースにレール、枕木、駅名板、駅事務所を再現展示しており、日ノ出地区ふれあいセンターには、昭和22年開設当時の日ノ出駅舎周辺の模型を展示しているところであります。さらに、旧訓子府駅舎周辺では「くる・ネップ周辺環境整備マスタープラン」にある「懐かしさを感じる空間」をコンセプトに鉄路の面影が残り、鉄路の歴史を学ぶことができる整備を検討しているところでありますので、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。

質問 3番 工藤弘喜

今、町長のほうから答弁がありましたが、私がこのことについて、質問をするという、大きなきっかけというか理由になるのは、やはり、まず、確かに先ほど余湖議員のほうでも提起されておりました「くる・ネップ」の周辺環境整備の問題含めて、これは当然、銀河線の廃線を踏まえた中でのさまざまな施策になる訳ですが、私が思っているのは、銀河線だけの問題にとどまらないで、やはり、先ほどこの答弁の中にもありましたように、明治30年に四国からこの地に入地いたしまして、その十数年後に鉄道を通そうという、本当に先人たちの熱い思いが、鉄道を本町に通す。そして、駅を開業するという町の発展にとって大きな転換点となる。そういう大事な部分だなというふうに感じておりました。そういうものが、仮に現在もここに鉄道が、レール走っていて、汽車が走っているという状況であれば、いつも子どもたちも、その次の時に生きる子どもたちも含めて、訓子府はこういうふうにして鉄道の歴史があったんだということに触れる。あるいは、自然と思い起こす機会もあろうかと思うのですが、今となっては、やはり何もなくて、ある意味本当にこの町に鉄道があったのかということさえもひとつは忘れ去られるというか、その記憶の外にいってしまうのではないかという思いが1つあります。これは、本当に鉄道というものの本来的な価値といいますか。これはいろいろな考え方はあろうかと思いますが、特に、これからの新しい21世紀、22世紀に向けて、本当にどうなのかということからいきますとやはりそこら辺は、大事なポイントにもなるのかなというふうにも思っていますので、そういうことからいきますとぜひ、そういうことが子どもたちにも伝え残せるということ。それからもう1つは、当時のそのことにかかわる、いわゆる直接的にかかわる人たちは、本当に今いなくなったと思うのです。当時、鉄道をひくために苦労した人たち、努力した人たちは、当然いない訳ですが、しかし、そこにかかわる、いくらかでもかかわりを持った人たちが今だからこそいるのではないかというふうに思っております。そういう人たちへの聞き取りも含めて、今こそやはりやっていかなければ、なかなかこの思いというのは、伝わっていかないのではないかなというふうに思っています。それで私もこの質問を考えながら、そして、ここまでに至る最初のきっかけとなったのは、村史を先に今年でしたか、もらったというか、読んだのですが、その後、町史もちょっと振り返ってみる中で、この町史の編集委員長というのは、この町の役場の職員でありました飯田さんが本当に心血を注いで、本当に歴史の事実も含めて、この鉄道の歴史については、書かれていることに非常に感銘を受けまして、やはりこういったことは、しっかりと先ほどくる・ネップの学びのコンセプトの中にという話もありますが、そういったことをやはり町民皆が見えるところに示すことが必要になってくるのではないかなというふうな思いもありますので、ぜひ、そういうことを検討してというか、そういうふうにしていきたいということもありますが、中身の問題も含めて、十分先に活かしていけるようなものにしていただきたいなというふうに考えております。それともう1つは、くる・ネップだけではなくて、町民、いわゆる町史を読んでおりますと日出駅の開業に向けても、やはり地元の住民の人たちが、当時、日出の居武士地区に日出、大谷の人たちのやはり自前の、いわゆるボランティアのような、そういう努力でもって、駅の開業に向けた努力が記されております。そういったことも含めて、くる・ネップ、いわゆる旧訓子府駅舎だけではなくて、そういう部分にもやはりちゃんとスポットを当て、それからもう1つは、気になったというよりもよく調べたなと町史の中で思ったのですが、鉄道の明治44年までの開業の間で大変苦労した着工の時の様子なんかも出ております。これは西富の多分今の訓子府の頭首工のあたりだと思うのですが、そこに小屋を建ててやってきたという経過もありますので、そこのところの歴史的な事実も含めて今一度町民の方たちに伝えていくということも含めて、この問題を検討していただきたいというふうに思いますが、最後、町長のこれからの取り組みについての見解をお聞きしたいと思います。

答弁 町長 菊池一春(町長は2023年3月まで)

平成18年4月20日に鉄道の最終便が夜の便が訓子府駅を出発して私も若富側の踏切で見送った記憶がございますし、さらには、大勢の方が銀河線とのさまざまな思い出で、最後の列車を送った状況でございました。同時に平成18年にその19年、私が町長になって、冒頭の答弁でも申し上げましたとおり何とか可能性についての努力をしてまいりましたが、大変厳しい状況であったということも踏まえて、3つほど、1つは、当時提案をさせていただいたり、実施をさせていただいた経緯がございます。1つは、鉄道の鉄路をどのようにするかということの議論とそれからこれは最終的には、銀河線の未来を考える会という名称だったか、ちょっと正確ではございませんか、その地域の代表の皆さんの最終的な考え方によって、全線はがすべきだという結論になりました。しかし、踏切のところの一部だけあそこを残して現在に至っている。3つあるというのは、1つは、当時の思いを文集に残そうと。これはたまたま今企画財政課長が持って来てくれていましたが、メモリアル文集ということで、ふるさと銀河線の思いをいろいろな方たちが書いていただいておりますし、それからさらには、もう1つは、レールを輪切りにして、これを町民の皆さんあるいは町外の方々に販売をすると。そして、その思いを伝えていきたいと。それから3点目に郷土資料館といいましょうか、歴史館に当時の駅長の服装やいろいろな備品等も含めて、あそこに一部展示をさせていただいたというのが3つのことで、その当時は、実施した経緯がございます。1つは、今これらの日出、訓子府町、西富の頭首工、私も町史等々、村史も含めて読ませていただきましたが、かなりの思い、それから犠牲等々含めて、それぞれの歴史は、95年間の歩みの中にはあるんだということでございますので、それらを総合的に判断して答弁をさせていただきましたように歴史的な経過も含めて理解できるような、子どもたちから町民の方の理解できるような方策を今後検討していきたいと考えているところでございます。例えば、頭首工のところに神社も簡単なのがあって、うんぬんというところの近くに飯場があったということですが、例えば、しばらくやっておりませんが、歴史表示板、例えば、平村エリコークや駅停跡等のああいう表示板を教育委員会のご理解もいただきながら、そういったものも改めてまたそういったところに建設するということも1つの方法かなということも含めて全体的な検討をしてまいりたい。とりわけ銀河線のこの先ほどのマスタープランの中でも幾分触れておりますが、歴史が理解できる、そういったものも念頭にしながら、これからつめていきたいと考えているところでございますので、ご理解を賜りたいと思います。

質問 3番 工藤弘喜

そういうことで、そういう見解というか、考え方でありますので、ぜひそういった方向で中身のあるものにぜひしていただきたいというふうに思います。今の町長の答弁の中にもありましたように最初にも質問しようとは思ってはいたのですが、もう1つは、今言われたように銀河線になってから、その存続運動も含めて、さまざまな思いをしながら、存続にかけた思いがなかなか功をそうしないで廃線になった。そういう町民のそういう部分の思いも含めたものにぜひしていくべきではないかなということがやはり大事な点の1つ、もう1つが、先人の思いとその銀河線の廃線に向けた時のそういう思い、これを両方含んだものというのをやはり念頭に置きながら進めてもらいたいというのが私の考えでもありますので、今の町長の答弁の中にもありましたので、そういう方向でぜひこれについては取り組んでいただきたいと思います。

出典:訓子府町議会 平成24年第4回定例会 2012年12月11日 議事録 PDF(1ページ) 間違いを知らせる