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古平町議会 令和5年第2回定例会 2023年6月19日

古平の空襲について

2023年6月19日、古平町議会の一般質問で、真貝政昭議員が「古平の空襲について」質問し、町長 成田昭彦が答弁しました。

質問者
真貝政昭 議員
答弁者
町長 成田昭彦

議事録から機械で取り出したものです。正しくは会議録でお確かめください。

質問 5番 真貝政昭

次に、古平の空襲について伺います。なぜこれをこの6月の議会で取り上げたかというと、前に沖縄の辺野古基地の埋立てに沖縄南部の土を埋立土に使うということで沖縄県議会が全会一致で反対して、古平でも議決してほしいと、反対だと来たのですけれども、よく分からない議員が多くなったということです。私が議会に参画した頃は皆さん戦争を何らかの形で経験している方でぴんとくる話なのですけれども、そうはなっていないと。私より年上の議員でさえ78年前の7月15日に古平が空襲に遭ったというのは知らないでいる。聞いたことがあるかもしれないけれども、分からないという、そういう方がたくさんです。戦争の記憶が全く風化しているということです。「せたかむい」、それから町史第3巻を見ますと具体的です。78年前の6月27日に古平で初めて空襲警報が鳴って、その次の年の7月15日に鉱石船射水丸ですか、町長がよく御存じですけれども、それが狙い撃ちされて23名の方が亡くなっているのです。私の母親なんかが学校に通勤途中でそれを目の当たりにしておびえた記憶があるのです。市町村で室蘭だとかああいう市では港で大分工場がありましたから、狙い撃ちも激しかったのですけれども、町で被害数、亡くなった数が一番多いのは古平なのです。北海道空襲ってあって、古平が一番犠牲者が多かったのです。今ウクライナでテレビで毎日のように放送されていますけれども、戦争の悲惨さを風化させてはならないと、そういう思いで私今回この件を取り上げたのです。琴平神社の中に昭和40年代に遺族会が鎮魂歌碑を建立しましたけれども、しょっちゅう琴平神社に行く方も、その鎮魂歌碑の裏側に戦争で亡くなった方の名前が刻まれていると知っている方はいなくなった。何だろう、これはというくらい松に覆われて、それが何なのかも分からないような状況にされていたと。それが私の指摘によって若干見えるようになったようですけれども、古平でこういうことがあったということを語り継いでいくということが今求められていると。それを行政として続けていかなければ完全に忘れられてしまうと。まだ古平空襲のことを知っている人がいるのだ、古平に。そういう方の証言とかを集める必要があるのではないかというふうに思っているのですけれども、町長の考えを聞きたいです。

答弁 町長 成田昭彦

古平空襲についてでございますけれども、まずもってここでいう戦争につきまして後世に伝えることは、町をというよりも第一義的に国の役割だと私は考えております。現時点では特段のそういった考えはございませんけれども、ただ古平空襲につきましては真貝議員おっしゃるように23名の方が亡くなられております。実際に空襲受けたときは21名だったのですけれども、その後昭和28年と昭和30年に射水丸が引き揚げられたというか、その中から遺骨が2体出てきたというふうに町史では書かれてございます。そういったものを町史にはかなり生々しく書かれております。そのときの空襲受けた、グラマンで空襲受けて、そのまま禅源寺の裏で焼かれて子供たちが見に行って怒られたとかと詳しく書いてございますので、その辺も何かの機会に町民に周知するような、そういうことは進めていけたらいいのかなと思っておりますけれども、いずれにいたしましてもそれらは今後の研究課題として考えていきたいと思っております。

質問 5番 真貝政昭

大分以前に寿都に行ったときに、寿都の港に道の駅っぽいところがありまして、そこに寿都空襲の冊子があったのです。私寿都の町史編さん室か寿都町そのものが、教育委員会なり関わっているのかなというふうに思っていましたら、民間の方がまとめたやつなのです。民間といっても当時あった測候所の職員がいろんな証言をまとめて、どういう空襲だったのかというのをまとめた冊子です。寿都町の教育委員会に問合せしましたら、民間の方でまとめた冊子、図書館にありまして、販売もしているといったかな、そういうような状況です。だから、公の行政が関わっているというのはほとんどなくて、全く個人の力によっていろんな実態が記録されていると、そういう状態なのです。個人に任せるというのは極めていいかげんなもので、誰かがそういう行動を起こさない限り永遠に記録は残らないだろうということなのです。町史と、それから「せたかむい」両方見ていますけれども、それでは語り尽くされないものがあるだろうし、「せたかむい」の中には、言い方は悪いですけれども、いろんな号の中に例えば空襲のことについてぽつぽつとあるような状況で、空襲についてまとめているような問題ではないのです。「せたかむい」の中を整理するだけでも結構いいものができるのではないかというふうに思っているのです。ところが、町史編さん室が閉鎖されたのが平成28年頃でしたか、それから個人の力でやられていましたけれども、それも町のほうでは保存されていませんので、全く分からなくなり、途絶えているという状況です。これを何とかして後世に残すような動きを、取っかかりを町側でつくっていただきたいなというふうに思うのです。後世のためです。二度とこういう犠牲を古平で出さないためにもということです。

答弁 町長 成田昭彦

確かに射水丸の空襲についても、町史の中には戦争に関しての文面というのはないのです。これも産業の中の稲倉石鉱山の中でこの戦争の空襲問題がうたわれている、読まれているという状況なものですから、今うちのほうも町史編さんのほう1人雇っていますけれども、今ちょうど町史第3巻で昭和43年、開町100年までの歴史しかないのですけれども、その後の歴史を今現在まで作っていただいております。そこも大体できてきたというふうに聞いていますので、その後は災害に取りかかってもらおうというふうに思っております。ですから、その中でもしこういう資料があって、できるものであればそういったものも作ってみたいなというふうに考えていますので、それはまだこれからの検討事項。ただ、いかんせん資料がどこまであるのかだと思いますけれども、その辺はできる限りそういった形で進めてまいりたいというふうに思っております。

質問 5番 真貝政昭

これは先日の道新の、日にちはついこの間というふうに言っておきますけれども、1面の一番下のほうに書籍の広告があったのです。私それ大きいところが割と目につくものですから分からなかったのですけれども、よくよく見たら菊地慶一さんという方が、元学校の教員です。今90を超えた方が間もなく自分も死ぬので、言い残しておきたいということで本を出したのです。北海道空襲で3,000人ぐらいの方が亡くなっているのかな、その中に子供が亡くなっているのが200人ぐらいだったかな、そのことを書いた本なのです。求めて読もうと思っているのですけれども、幸いに古平は子供の犠牲者はいなかったのですけれども、この戦争の記憶というのは知っている方たちにとっては遺言のように残しておきたいという希望が非常に強いです。沖縄から意見書が来たときにチラシに書いてみたら、自分の兄も沖縄で亡くなって帰ってこなかったという、そういう電話をいただいた女性の方がいました。もう古平にはその方いらっしゃいませんけれども、忘れてはならないことなので、ぜひとも大事な案件として取り組んでいただきたいと思う次第です。答弁を。

答弁 町長 成田昭彦

できる範囲でそういった方向では進めてまいりたいと思います。

出典:古平町議会 令和5年第2回定例会 2023年6月19日 議事録 PDF(49ページ) 間違いを知らせる